2016年06月29日

仏教の役割




私は、週に1回ほど小さな日本語学校で日本語を教えています。
そこに、お坊さんが1人います。
授業料どうしたの?と聞いたらお布施から払ったといいます。
日本語どうして習ってるの?と聞いたら日本に行って働きたいからだといいます。
それだったら、お坊さんやめてから勉強したらいいのにと思いました。

私は、最初すごくいやでした。
お坊さんには高潔でいてほしいという気持ちがあるからです。
だんなさんに聞いたところよくある話ということでした。

5歳も満たないような尼さんが托鉢に行っているのをみると、あんなに幼くて仏教の意味も分からずになんのために・・・と批判的に思っていました。
これもだんなさんによると、貧しくて育てられない家庭があるということで、もし尼さんにならなかったら、人身売買で売られるかもしれないよ、とのことでした。

ミャンマーで仏教は、貧困層を救うという社会的な役割をしています。
日本語を話せる年長の人は、僧院で習った人が多いです。
本来は、政府がしなければいけないことだと思います。

お金をもらうために偽者のお坊さんをしたり、寄付金をだましてとることはもちろん悪いですが、行き場のない人たちの隠れ蓑になっていることは簡単に悪いとは言えないと思いました。実際お坊さんの生活は、大変だと思うし。

ミャンマー人は、信心深いことはほめ言葉になります。
宗教があるからこの社会の善悪や秩序が保たれていると思っています。
日本は、宗教に信心深いというと怪しい人と思われます。
日本人のほとんどは、無宗教ですが秩序が保たれています。それは、規律が厳しいからです。

ミャンマー人は信心深くて、親切ですが、ゴミ出しなどはぐちゃぐちゃです(笑)

  

Posted by たひち at 18:00Comments(2)

2016年06月26日

オカマとカン





ミャンマーには、オカマが多い。

日本には、商業オカマはたくさんいるけど、日常生活でカミングアウトする人は少ないと思う。

道を歩けばたくさん見かけるし、身近にも同じ学校へ行く車に乗る学生の中にオカマとオナベが一人ずついる。
馬鹿にしたり嫌悪する風潮はあるけど、日本よりオープンであると思う。

カンとはミャンマー語で運・行いという意味の単語である。

運と行いにはすごい意味の開きがあるのには、理由がある。

仏教徒から言うとゲイやオカマになってしまったのは、前世の行いが悪かったからであると考えられている。
日本でも、「前世の行いが悪かったから」とか「日ごろの行いが良かったから」などというけど、こちらの仏教徒は本気でそれを信じている。

日本や欧米では、LGBTとして広く浸透し、理解されていて、そうなったのは本人の意思でないし責めることでないとされている。

遺伝や、胎児の時にホルモンを浴びてそうなるといくら科学的に証明できたとしても、どうしてその人がそういう状況に置かれたのか、ということは説明できない。

そこで、たまたまとか偶然ということになる。つまりそれは運である。


でも、仏教では偶然はない。物事の全てに因果関係があって必然なのである。
障害を持って生まれるとか、両親がいない、災難に遭うことなどは、運ではなくて前世や現世の行いのせいなのである。

サッカーの試合でゴールインしたとき、「カンカウンデー」(カンがいい)という。
仏教徒でない人からしたら「運がいい」仏教徒からしたら「行いがいい」という風になる。

だからカンという単語には二つの意味がある。

最近は、仏教徒でも運という意味で使うことが増えているようだけど。





ぼーと考えてて、カンの単語にどうして二つの意味があるか、やっと気づきました。
きっとそういうことかと思います。
誰か詳しい人がいたら教えてください。


ちなみに写真は、最近はまっている芸人バイセクシャルと公言しているメイプル調合金のカズレーザー。
  

Posted by たひち at 22:24Comments(2)